
町家を楽しむための用語集
奈良町物語館に見られる町家特有のかたちやモノの名前を挙げてみました。館内の主なところに説明板を置いていますが、一つ一つ見比べたら、町家が持つ意味や昔の暮らしの知恵に気づいていただけると思います。
つし(厨子)二階建て
一部二階建てになった近世の町家の形式です。厨子(ずし)とは戸棚のことで、転じてものを収納するため屋根裏に設けた棚を指し、屋根裏の部屋を「つし二階」、それがある家を「つし二階建て」と言うようになりました。外観は二階建てですが、二階の高さは抑えられ、一階の屋根は実質的には庇(ひさし)です。屋根裏部屋は物置や使用人の部屋として使われました。明治以降、普通の二階建て(本二階)が普及しました。
揚げ床几(しょうぎ)
「ばったり床几」とも言います。戸口の脇に設けた縁台ないし腰掛けで、回転させてはね上げると壁面に縦に納まります。もとはミセの商品を並べた常設の台で、使わないときは簡単に収納できるようにしたのが始まりとされています。
箱階段
二階に登り降りする階段の下を収納スペースとして効率的に利用するため、側面に小引出をタンスのように組み込んだ階段です。
雪見障子(ゆきみしょうじ)
庭に面した部屋の紙障子の下部にガラスをはめた障子のことです。冬に障の子を閉めたままガラス越しに庭を眺められるので名づけられました。奥の八畳の間の障子は下部の中央のガラスの部分だけ上下にスライドする紙障子を取り付け、下ろした状態では普通の障子ですが、上げると障子が額縁のような効果を生みます。いずれも板ガラスが一般に普及してからの工夫でしょう。
床の間
伝統的な書院造では、書院(床の間の縁に面した側の障子窓=書院窓=付きの低い棚)、違い棚とともに三点セットとして部屋の格式の高さを表すしつらえでした。奥の八畳の間には床の間だけがあり、天井も棹縁天井(さおぶち=細い化粧材で天井板を支える天井)として、客を迎える町家の奥の間としての格を示しています。
通り庭
ミセの表と中(裏)庭とを結ぶ土間の通路です。奥に台所(流しとかまどなど)を設けます。町家は隣家と軒を接して奥行きが深いので、中庭は採光と通風のために不可欠です。また、中庭に面してトイレや風呂、蔵があるので、通り庭は下水道が普及するまでトイレのくみ取りのルートでした。
小屋組み
屋根裏を支える構造を指します。松の太い材を荒削りした梁を縦横に組み合わせた上に束(つか=細い柱)を建て、横材の貫(ぬき)を縦横に通して固め、棟木や、垂木が載る母屋桁を支えます。通り庭の上部は天井を張らないので高い小屋組みがそのまま現れ、空間のスケール感が見どころとなっています。
差鴨居(さしかもい)
サシモノとも呼びます。幅に比べて背(せい=高さ)を数倍、またはそれ以上高く造った鴨居です。敷居と組み合わせて建具をはめる役割だけでなく、柱と柱をつないで固め、梁の役割も兼ねる構造材です。
根太(ねだ)天井
二階の天井を支える太い根太をそのまま見せる飾らない天井のことです。奈良町物語館の六畳の表の間と四畳半の中の間の天井がそうです。
出格子(でごうし)
表に張り出した窓の格子を指します。ならまちの古い民家は元興寺町の藤岡家住宅(重要文化財)のように半割りした丸太を並べて格子とした「奈良格子」が特徴的ですが、奈良町物語館の格子はやや太い普通の格子です。
虫籠窓(むしこまど)
表側のつし二階の壁に設けた塗り籠めの明かり窓。縦格子と全体の形が虫籠(むしかご)を思わせるのでそう呼ばれるようになりました。
袖卯建(そでうだつ)
卯建は、隣家との境の妻壁を一段高くして屋根をつけたものです。近世初期の洛中洛外屏風などにも描かれています。袖卯建は二階の軒の両側、隣家との境に取り付けた袖壁を指します。隣家の火事の際に軒裏に火が回るのを防ぐためと言われますが効果は疑問とされ、一種の装飾です。卯建があるのは立派な家ですから、これから「うだつが上がらない」というたとえが生まれました。
井戸
水道の普及で埋められたりして、ならまちでも現役の井戸は少なくなりました。中庭にある井戸は深さは10メートル近くあり、側壁は石で積まれています。ふだんは安全のため太格子のふたに鍵をかけていますが、水量は豊富で、滑車のロープに結んだつるべで水を汲むことができます。真夏でも水温は20度以下です。
かまど(竈)
奈良町物語館の改修前は、通り庭の奥に残っていました。井戸とともに暮らしに欠かせないものでしたが、ガスの普及で過去のものになりました。火伏せのお札やかまど神を祀る習わしもなくなりました。中庭にはご飯のかまど炊きイベントに使う移動式の置きかまどがあります。
身代わり申(さる)
括(くく)り猿ともいいます。紅白の布で作った綿入れ人形で、手足を上向きに結ぶのが特徴です。ならまちでは大小5個をひもで連ねて軒先や玄関につるします。庚申(こうしん)さんのお使いの猿をかたどり、もとは西新屋町の庚申堂に魔除けや厄除けの身代わりとして奉納されたものがならまち名物になりました。