
奈良町物語館について
[目次]
奈良町物語館とは
奈良時代の元興寺金堂の跡地に建つ、明治時代の奈良町家を改修した展示やイベントのための多目的スペースです。
公益社団法人奈良まちづくりセンターが中心になって市民や企業から寄付をいただき、国や行政の補助も得て空家を大改修し、1995年に誕生しました。
改修の際には、市民ボランティアや子どもたちが自分たちでできる壁塗りなどの作業に加わりました。奈良町物語館は町家を守り、大切に伝えようと想う人々の心から生まれたのです。
町家の特色を生かして<ならまち>から工芸やアート、演劇、音楽など多彩なイベントを発信し、訪れた人に安らぎと出会いを生む場となっています。

「ならまち お散歩マップ(近鉄発行)」のタイトルページになりました
<ならまち>の歴史と奈良町物語館
元興寺金堂の跡地
奈良町物語館が建っているところは、南都七大寺の一つに数えられた奈良時代創建の元興寺金堂の跡地です。室町時代の宝徳3(1451)年、土一揆のため金堂が焼失してから元興寺は衰え、近世には旧寺域に町家が次第に建ち並んで奈良町が形成されました。物語館がある中新屋町、西新屋町、東の芝新屋町は総称して三新屋とも呼ばれ、<ならまち>の中心です。物語館の床下と中庭には金堂の礎石が残り、過去には隣家からも礎石が発掘されています。
奈良町物語館と歴史の道
猿沢池から南の中新屋町に至る道は、奈良盆地を南北に貫く古代の道の一つ「上(かみ)つ道」にあたるとされています。「上つ道」は平城京以前から存在した官道で、元興寺の建立により寺域で中断されましたが、その衰退とともに寺域を縦断する形で再びつながったと考えられます。
猿沢池から南下した道は物語館の前の東西の道に突き当たり、芝新屋町と西新屋町の両側に分かれます。金堂が滅びてからしばらくの間は土壇が残っていて、道が土壇を避けるために両側に迂回したのが理由とされています。何気ない道のかたちに金堂のかつての姿を留めているわけです。
伊勢神宮へのおかげ参りが流行した江戸時代末期、この道は「おかげ参り」の人々の往還で大層にぎわいました。大坂からは生駒山脈の暗峠越(くらがりとうげごえ)奈良街道を通って三条口で三条通に入り、猿沢池から南下して中新屋町~芝新屋町を経て天理から桜井付近で伊勢街道につながるルートです。
奈良町物語館の造り
物語館の建築年代は明治時代初期とされていますが、棟札などはなく詳細は不明です。現状は木造桟瓦葺き平屋(一部2階)、延べ約210平方メートル。2階の建ちが低い、いわゆる「つし二階建て」で、敷地は間口(約7.9m)に比べて奥行きが深い町家独特の造りとなっています。1階の東側に中(裏)庭に通じる通り庭を設け、中庭には暮らしに欠かせない井戸があります。
通り庭の上部は高い吹き抜けとなり、梁と束(つか=柱)とで縦横に組み上げた小屋組みの開放的な空間が魅力です。表の二階の壁の中央に塗り籠めの虫籠窓(むしこまど)、同じく軒の両側に袖卯建(そでうだつ)を構えています。奈良の町家の中でも大型に属します。
もと酒屋あるいは醤油屋だったと伝わりますが、近年はたばこ屋になり、その後は長い間、空家でした。奈良まちづくりセンターが中心になって大改修し、物語館として再生させました。

床下に残る元興寺金堂の礎石。開館のときはいつでも見学できます

床下の礎石をのぞき込んで手を触れるタモリさんと桑子アナ
■ エピソード:元興寺金堂の礎石
床下の礎石は物語館の改修の際に発見されました。もう一つ、中庭にある礎石は地上に置かれていて、沓脱石ないし庭石として使われたようです。金堂が焼失し、しばらく残っていた土壇も姿を消し、今では遺構は町並みの地下に埋もれました。土壇を崩す際、礎石は邪魔なので横に深い穴を掘り、落とし込んで埋めたようです。隣家で発掘された礎石はそのようなものでした。地下にはまだ礎石が眠っているはずです。
物語館の床下の礎石は、NHK総合テレビの番組「ブラタモリ」でタモリさんと桑子真帆アナウンサーが訪れ、2015年6月27日、「奈良~奈良発展の秘密は“段差”にあり?」の1シーンとして放映されました。
奈良町物語館の平面図
<1階>

<2階>

アクセス
奈良町物語館
〒630-8333 奈良市中新屋町2-1
開館時間:10:00~16:30
TEL:0742-26-3476 FAX:0742-27-0969
Email:nmc@m4.kcn.ne.jp


近鉄奈良駅から徒歩15分
JR奈良駅から市内循環バス内回りに乗車、田中町バス停下車、徒歩8分